応募タイトル
400年前からある塗り見本の仕組みをもとにした、WEB上でシミュレーションして注文できるセミオーダーの津軽塗
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
1978年青森県弘前市出身。2003年岩手大学大学院修了。2016年津軽塗セミオーダー シカケを立ち上げる。2012年東京開催の第67回国際通貨基金(IMF)・世界銀行年次総会公式記念品のデザインを担当。2018年LEXUS NEW TAKUMIPROJECT 2018の青森代表就任。
津軽では藩主など身分が高い人が、「手板」という塗り見本から好みの色や柄を選んでお抱えの職人に好みの塗り物を作らせていたといわれる。シカケでは、その仕組みを踏襲して13種類の塗りパターンから「上を赤に、下を紋紗塗に」と2種を選択しセミオーダーのお椀とお箸を作れるシステムを構築。手作りの強みである、使い手の好みに応じて仕様を変えた製品を気軽に注文することを可能にした。WEBでは、塗りの組み合わせをシミュレーションでき、シンプル、ゴージャスなど100パターン以上の組み合わせから自分好みの漆器を選べる。制作は、三代続く津軽塗の松山工房が中心。お椀はオリジナルデザインで国産材、色とりどりの塗は天然漆を使用。10年保証付きという高品質な品ながら、WEBで注文できる親しみやすさが評価された。
デザイナー、プロデューサーの對馬 眞氏による津軽塗のセミオーダーブランド「シカケ」。約400年の歴史を持つ津軽塗だが、いまや職人は100名を切ったともいわれ、職人よりもオリジナリティを全面に出す作家にシフトする人が増えている。そんななかシカケは、無名の職人たちが繋いできた「唐塗」「七々子塗」など津軽塗の伝統的な技術を基本とし、カラフルな塗りのバリエーションを加えることで、伝統的、現代的な商品どちらも取り扱うことを目指した。「ものではなく、塗りそのものを売る」をモットーに、WEBを活用したセミオーダーシステムの構築、素地のデザインやアイテムのバリエーションを追加。豊富なラインアップから好まれる塗りの傾向を分析するなど、流動的な商品開発に取り組んでいる。
津軽塗セミオーダー シカケ
約400年前に殿様など身分の高い人たちが手板という塗見本から、好みの塗りを選んで組み合わせ作らせていたと言われる津軽塗。それと同じように13種類の塗りから2つを選ぶセミオーダーのお椀と箸。普段使い、ギフトとして特別な品として、好きな組み合わせを100パターン以上の中から選べる。
応募タイトル
失われた工芸技法、金銀銅杢目金の再現と発展・継承
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
秋田県
応募タイトル
失われた工芸技法、金銀銅杢目金の再現と発展・継承
1937年秋田県秋田市出身。父親に師事し10歳で工芸の世界に入る。金属工芸を生業とする傍ら、失われた技法「金銀銅杢目金」の再現に尽くし技法を確立、その発展継承、保護育成に努める。秋田県美術工芸協会会長(42年間)、秋田市文化賞。秋田県文化功労者表彰。地域文化功労者文部科学大臣表彰。日本工芸会正会員。
杢目文様に加え、新たに板目文様を出すことにも成功。デザインに多様性を持たせ、現代的な茶道具、花器、飾り箱などを制作。「失われた技法を解明した、ゆるがない信念」(審査員・千宗屋氏)など審査員より高い評価を得た。
金銀銅杢目金はかつて鉱山が栄え、金銀細工で名を馳せた秋田藩佐竹家由来の伝統工芸品。金、銀、銅、赤銅など数種類の金属を層状にし、高温で融着。堀孔、鍛延を繰り返し秀麗な杢目文様を表出させた板状の素材のことを杢目金と呼ぶ。秋田藩お抱えの金工師・正阿弥伝兵衛が始祖とされ、刀のつばや柄に取り入れられた。金、銀は融点が異なることから金工技術の難易度が高く、貴重な金を素材にするという特殊性から、その技術は一子相伝、文献一切なしの口伝のみとされ、長年再現困難な幻の技法とされていた。10歳より金工の道に入った林美光氏は、20代でわずかに現存したこの金銀銅杢目金作品と出会い、以後、再現に挑戦する。60代にしてようやく正阿弥伝兵衛の技法を解明し、技法消失以前の作品に比肩する作品の制作に心血を注いできた。
金銀銅杢目金 切嵌飾箱「玉水」
切嵌技法を用い、金銀銅杢目金の秀麗さを黒地(赤銅)との対比によって引き立たせた飾箱。メインとなる荘厳な玉杢目紋様に合わせ、繊細な板目紋様を添わせることで杢目金の多様性と奥深い美を表現している。伝統的な箱型でありながら細部には意匠を凝らしており、高度な技術によって伝統と現代性を融合させている。
応募タイトル
里山に埋もれた銘木がチップ材となる前に、命を吹き込む伝統の技
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
1958年熊本県出身。仙台箪笥職人を志し、1976年から宮城県の渡辺俊夫氏に師事。1985年宮城県富谷市にて木香舎を主催し、仙台箪笥職人として45年従事。2012年経済産業省指定・伝統工芸士任命。同年には東京駅の復元工事に参画するなど、様々な木工品を手掛ける。
45年以上、仙台箪笥の制作を手がける工房。40年前からさまざまな受注制作を受け、アールヌーボー、ロココ、北欧モダンなどさまざまなリクエストに応えてきた。欅の脇机「青葉の風」など自社の新しい家具シリーズを展開するとともに、2012年には、東京駅の丸の内南口、ドーム天井の復元工事においてアーチ型の窓、丸窓ドア木製を担当。仙台箪笥の技術を用いて、新たな価値を生み出す前向きな姿勢が評価された。
放置された里山から切り出された広葉樹は銘木と称される木であっても、変形木であれば用材にならずチップ材として消費される。このような木々を活用すべく、その特性を生かした家具を制作。仙台箪笥は直線的なデザインが多いが、このシリーズには曲線を多く取り入れ、座板や天板は薄くすることで繊細さを表現。主な材料である欅の硬度が非常に優れており、仙台箪笥職人として培った、臍をしっかりと組む和家具由来の製法による強度の高さも兼ね備えた。伝統的な仙台箪笥の需要が減退するなか、このような経験と世界中の芸術品や工芸品から学んだ知識から、曲線的なデザインを想起し、仙台箪笥職人として培った技術をもって作品を制作し続けている。
青葉の風 長椅子・脇机組
仙台箪笥と同じく、最高級の欅を使用。仙台箪笥が売れない中でも、良い材料を使って、安らぎの気持ちを届けたいという思いで製作した家具シリーズ。長椅子は座板を薄くすることで繊細に仕上げたが、和家具由来の技術によってその強度は抜群。脇机のしなやかな足は仙台・青葉通りで風に揺られる欅をイメージして製作。
応募タイトル
原点回帰と海外展開、相反する二つの取り組みの中に⾒る本質
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
1976年宮城県仙台市出身。2001年早稲田大学商学部卒業、同年株式会社リクルート入社。2011年東日本大震災直後に株式会社門間箪笥店に入社。ブランディング、技能継承、販路開拓に取り組む。2017年海外展開を本格的にスタート。
2018年七代目社長に就任。香港に現地法人設立。2021年香港に旗艦店をオープン。
伝統的なデザインの仙台箪笥が売れにくい状況で、安易な現代風のデザインへの変更や廉価版の制作に走ることなく、職人の技を理解してくれる顧客がいる海外マーケットへの開拓が評価された。また、この開拓において得たノウハウや知識を自社で独占することなく、積極的に同業者とシェア、共同でフェアを開催するなど、日本における仙台箪笥全体の海外展開を支援している。
生活様式が変化し、国内の売り上げを落とし続けている仙台箪笥の活路を海外に求めた。2017年には、香港の百貨店の直営店にてトラディショナルな仙台箪笥とソファをコーディネートし、洋家具との相性がいいことをPR。2019年には、同百貨店の特設スペースで仙台箪笥フェアを開催。香港の富裕層に、仙台箪笥のインテリアとしてのポテンシャルの高さと日本の職人技を存分に伝える場となった。2020年はコロナ禍のためフェアは中止となったが、2021年11月には香港に路面店をオープン。販路拡大に取り組んでいる。海外進出の一方で残すべきは、古典的な形状である野郎箪笥を作るうえで必要な技能と、その文化的背景、形式美を次世代に引き継ぐことと考える。そのため、あえて現代的なデザインを取り入れることなく、昔ながらの形状をベースに、現代の生活様式を踏まえたサイズ変更やマイナーチェンジによる意匠性のアップのみで製品開発を行う。
二尺猫足両開き
「monmaya TRADITIONAL」の一つである箪笥。猫足の歴史は古く、終戦後にアメリカ軍が仙台に駐留していた際に、門間屋の三代目・民造に椅子の生活にも合った箪笥を作るよう求めたことに始まる。その際に、民造が座卓と箪笥を組み合わせて作ったワインキャビネットが二尺猫足の原型となった。
応募タイトル
日本の伝統工芸 金工の彫金技法「布目象嵌」の歴史的経緯と正しい基本技法の普及
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
1958年東京にて日本画家平出宏行の次男として生まれる。1977年母方の祖父鹿島一谷(1979年重要無形文化財保持者に認定)に師事。1979年より日本工芸会主催の公募展に出品開始。近年は海外(アメリカ・中国など)でも展示やワークショップを行う。現在(公社)日本工芸会正会員。彫金工房「工人舎」主宰。
歴史的な経緯から、さまざまな技法が混在する布目象嵌。鹿島和生氏は、本来の鹿島布目の技法を研究し普及に熱心に努める。本象嵌と違い高価な材料である金も薄い箔なので経済的であり、広い面積や薄い地金にも可能な布目象嵌。作者が刻む目切跡や修正ができる輪郭線の美醜によって、個性、感性の違いが如実にあらわれる。その表現を用いた作品のクオリティの高さは類を見ず、技法を追求してきた鹿島氏の工夫が光る。
西欧で生まれた「布目象嵌」の技法が日本に伝わり、熊本の「肥後象嵌」、京都の「京象嵌」として現在に至っている。鹿島和生氏の亡き師父である四代目・鹿島一谷氏によれば、鹿島初代が日本独自の「色がね」である赤銅や四分一に施せるように開発創始したものが「鹿島布目」であり、鹿島家が東京では布目象嵌の宗家のような存在だったという。1889年に開校した東京美術学校(現・東京藝術大学)の彫金科の学習課題には専門的すぎるためより簡略化した方法が考案され、四代目・一谷氏はその方法を本来の「鹿島布目」に対し「学校布目」と呼んでいた。そのような歴史的背景があり、現在ではさまざまな布目象嵌が混在している。和生氏は、四代目・一谷氏が晩年作品に多用した三度目の目切りで銀地に金や鉛箔を布目象嵌し、鉛箔を炭で研ぎ出し墨絵のような効果を出す工夫は、二代目が創意工夫した「研ぎ出し象嵌」を現代に翻案した「一谷布目」と呼ぶべき表現である、と考える。次世代には、本来の鹿島布目の技法をきちんと基本から伝えたいと考え、自身の作品を通じて普及に努めている。
布目象嵌胡蝶文接合せ花器
彫金の加飾技法のひとつである「布目象嵌」の汎用性を示すべく、撚線象嵌以外の加飾は布目象嵌のみで表現した。主題の蝶を「学校布目」、背景の幾何文を「鹿島布目」と2種類の布目象嵌技法を使い分け、さらに独自技法の「銷盛」で蝶にアクセントをつけ四弁華幾何文を研ぎだすことで主題と背景のメリハリを強調した。
応募タイトル
後継者不足の職人技を障がいのある異才の若者が継承するプロジェクト
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
応募タイトル
後継者不足の職人技を障がいのある異才の若者が継承するプロジェクト
伝統と福祉の連携(伝福連携)を実践する任意団体。反復作業に集中できる障がい特性を持つ若者たちの可能性に寄り添い、講座形式で職人技を指導。2019年千鳥うちわ作品を灯りのインスタレーションとして神社で展示後、ミラノやパリから受注。千鳥うちわを継承モデルとして、また活動の媒体として広げることを目指している。
300の工程があるという千鳥うちわの制作。資材を和紙、竹骨、持ち手に3つにわけ、各パーツを今後の継続制作が可能な施設で練習にとりかかった。和紙は、ユネスコ無形文化遺産の和紙技術を習った施設が担当。持ち手の磨き仕上げは木工作業を得意とする施設が担当。竹骨を並べる貼り作業は、複数の施設で職人に直接指導してもらった。障がいを持つ方のそれぞれの個性に合わせた工程を割り振ることで、その能力を存分に引き出し、結果としてクオリティの高いプロダクトとして仕上げた点が高く評価された。
江戸時代初期、京都から日本橋に渡り進化した「江戸仕立て都うちわ千鳥型(通称:千鳥うちわ)」は、独特の千鳥型フォルムと、約100本の極細の竹骨が精巧に並ぶ美しさなどで、大正時代に人気を集めたという。クリエイティブシェルパの羽塚順子氏は竹骨の並びの緻密さを見たとき、 「自閉症スペクトラムの子の作業に向いている」と直感。うちわの技術が後継者不足で絶えようとしている現実と、並外れた集中力を持ちパターン化した職人的作業が得意ながらもコミュニケーションが苦手で才能を活かせない障がい者就労支援施設に通う若者が多くいる現実。この「職人技と異才」をマッチングをしたいと、伝承モデルを藤田昂平氏と企画。職人からの指導協力、技術伝承講座、資材調査調達交渉、準備など進め、今後のモデルケースともなりえる伝福連携を実現した。
江戸仕立て都うちわ千鳥型(千鳥うちわ)
千鳥団扇一筋60年以上の職人から技を学び、本体パーツを3つに分解。楮からの和紙漉き、真竹の極細加工と1枚あたり100本の竹骨貼り、杉材切り出し加工と持ち手磨きと、それぞれ資材調達から仕上げまで障がいのある若者の手仕事で行った。磨き込んで丸みのある持ち手、光を透かした美しさが際立つようリデザイン。
応募タイトル
日本全国の横笛作り。能楽や雅楽、各地の伝統芸能を支える囃子方を増やす取り組みをしています。
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
応募タイトル
日本全国の横笛作り。能楽や雅楽、各地の伝統芸能を支える囃子方を増やす取り組みをしています。
10歳より篠笛を吹き始める。その後、品川間宮社中・故大島仁志氏に師事し、本格的に神楽囃子を習う。師匠と笛作りの研究を開始。会社員となり、仕事を通じて管楽器調律技術を習得する。2005年、工房開設準備を始め、現在に至る。
大田区伝統工芸発展の会会員。東京都伝統工芸技術保存連合会(一社)和楽器普及協会設立理事。
祭りの盛んな地域で生まれ、神楽囃子の担い手でもあった父の影響で、10歳の時から篠笛に慣れ親しむ。深川や浅草など東京各地の祭りに赴き、演奏にのめり込んだ20代。楽器関連の会社に勤務し、管楽器の技術を習得。50歳で会社勤めを終え、自宅の一室でオーダーメードの横笛の制作を始めた。さまざまな種類がある横笛を作り分ける技術やドレミ音階の篠笛の開発など、演者であり知識豊富な職人であるため、和楽器演奏者にとっては駆け込み寺のような存在。国内での普及や、海外からの受注につながるインターネットでの発信にも力を入れる姿勢が評価された。
日本全国には伝統芸能が点在し、能楽、雅楽、御神楽、邦楽囃子、祭囃子、獅子舞など多様な横笛が存在する。各笛にはそれぞれの音楽に応じた調律と音色があり、各地の祭りや伝統芸能を支えている。しかし、高齢化で笛師(笛職人)は激減。能楽に使う能管、雅楽に使う龍笛も同様で、笛師も演奏人口も後継者不足に悩まされている。田中康友氏は自身も10歳から篠笛を始め、20代より独学で横笛を作り始める。その後ヤマハ発動機の代理店に勤務し、仕事を通じて管楽器の調律技術を習得。50代の時に平均律ドレミ音階の篠笛開発に成功、その後、笛師として起業し能管や龍笛の他、日本全国の横笛を製作。和楽器の普及活動に力を入れ、和楽器職人と演奏者、楽器商、伝統芸能家、伝統工芸家、作曲家と共に『和楽器普及協会』を発足。囃子方の育成や和楽器バンドの流行にも一役買っている。
能管・龍笛・篠笛
幻想的な音を持ち、お能や歌舞伎の音楽に使う笛・能管。日本の横笛の元となったと言われ、雅楽や御神楽に使う・龍笛。御囃子に使う古典調、歌舞伎音楽に使う邦楽調、現代音楽に使う洋楽調などさまざまな種類がある篠笛。オーダーメイドを中心に演奏者に合った笛を製作。
応募タイトル
伝統を踏まえ、さらに独自性のある竹工芸の作品制作と発表
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
1958年東京都荒川区出身。祖父・翠心、父・翠月と続く竹工芸家。のちに飯塚小玕齋に師事。1986年日本伝統工芸展初入選。以後連続入選。2009年文化庁文化交流使としてドイツに派遣される。「工芸2020―自然と美のかたち―」出品(東京国立博物館)。日本工芸会正会員。竹工芸の魅力を広く伝えるため日暮里に店を構え発信する。
飯塚琅玕斎が復活させ、飯塚小玕齋が取り入れた天平文化の技法・束ね編みの技術を現代の表現にすべく、独自の解釈を自身の作品に取り入れるなど、竹の新しい表現方法に真摯に取り組む。ドイツのハンブルグを拠点に5都市を巡るなど文化庁文化交流使として海外でも活躍。現地でのワークショップ開催や、イギリスの展覧会出展などグローバルに竹工芸の魅力を発信する。
正倉院の宝物のなかにも多く残される竹工芸品。武関翠篁氏は祖父・翠心、父・翠月、人間国宝・飯塚小玕齋に師事し、三代にわたって花籠を制作し続けてきた。真竹、虎竹、根曲竹などが材料となるが、使用するのは新しいものだけではない。祖父が集めた茅葺家屋の囲炉裏で使われていた煤竹は、囲炉裏や竈門が消えゆく今、大変貴重な材となっている。竹工芸には「編み」と「組み」の手法があり、そのなかでも武関氏は、赤と黒に染め分けた竹ひごを、六つ目、ござ目などの「編み」と、櫛目といわれる竹籤ひごを等間隔に並べた「組み」を重ねる手法を特徴とする。竹ひごが重なり透けるところに、この「編み」「組み」が異なる表情を見せ、その美を追求している。
束編菱紋花籃≪来光≫
文化交流史としての役目を終えドイツからの帰路、飛行機から雲海を見た。その美しさが目に焼き付き、形にしたいと制作に取り組んだ作品である。雲海を照らすご来光をイメージし、内側は鮮烈な赤で竹を染め直線に組み上げた。外側は自身が研究している束編で雲海の立体感を表現した。
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
応募タイトル
anima・insectum・fruits garden(木目込技法を用い動物、昆虫、植物をモチーフに新しいオブジェを創出)
1953年東京都出身。1976年多摩美術大学彫刻科卒、同年株式会社松崎人形入社。2006年同社代表取締役に就任、現在に至る。木彫、彫塑を得意とし人形その他の創作をすべて自らの手で行う。日本工芸会正会員。伝統工芸士(江戸木目込人形、江戸節句人形)。
木目込みという技術は同じながら、従来の節句人形とはまったく方向性の違う、動物や昆虫、植物をモチーフとしたオブジェに、「高い技術力と斬新さを感じる」(審査員・福島武山氏)と高評価。若い職人の育成にも力を尽くし、フランスなど海外にも積極的にアピール。アートとしても十分に受け入れられるクオリティで、人形工芸の新しい方向性を示した。
木目込み人形は、1740年ごろに京都・上賀茂神社で祭事用柳箪(奉納箱・賽銭箱)を作った職人が、残った木片で人形を作ったのが始まりとされる。桐糊(桐の粉と糊を混ぜたもの)を固めた人形に溝を堀り、金欄や友禅などの布地をヘラで入れ込んで(=木目込む)作る伝統的工芸品である。
雛人形、五月人形と節句人形として高い人気を誇ったが、少子高齢化、核家族化などのライフスタイルの変化で今は需要が下がりつつある。松崎人形では、消費意識の変化や今までのような大量生産、大量消費ではない持続可能社会の視点から、ものづくりを再考。日本古来の木目込技法、裂地、造形感覚を駆使しながら手作りのあたたかみを残しつつ、新たなモチーフ、用途で新感覚の製品を創出し、技術を次世代へつなげている。
insectum (インセクタム)
木目込の技法と新しい3Dの技術を使い昆虫のオブジェを創作した。非常に細かい作業が必要で、手仕事で制作するのは不可能なため3Dプリンターを使用し実現。胴脚部はロストワックスによる真鍮の鋳造で作り、それ以外は直接出力紙木目込で仕上げ、裂地の美しさとフォルムの面白さを表現した。
応募タイトル
anima・insectum・fruits garden(木目込技法を用い動物、昆虫、植物をモチーフに新しいオブジェを創出)
応募タイトル
羽越しな布の継承と、色気のある表現手法の展開
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
1977年埼玉県出身。東北芸工大工芸コース卒業、同大学院実験芸術修了。現代美術家を経て、新潟県村上市山熊田のマタギ頭領に嫁ぐ。村に続く日本三大古代布「羽越しな布」の唯一の若手として継承、2018年工房を構える。伐採から織りまで一貫した制作と、多様な表現への試みや伝統保存活動に励んでいる。
山熊田のしな布は、村の伝統の上に成り立つ。持続可能な資源管理を目指すため、シナノキの伐採は年3日の定められた日のみ。自家栽培の米の糠、山で伐採した木の灰など、材料すべてがこの土地に強く結びついている。このシナノキの糸を得るまでの工程と熱意こそ評価に値すると、審査員からの評価が高かった。また、織りにおいて大滝氏は伝統的なもじり織の技法を応用し、新たな展開を実践。経糸を一本ずつ爪で拾いねじり絡め、横糸を通すという山熊田に残る織り方と綴織の技法を合わせて用い、帯を織り、大学院でアートを学んだという大滝氏らしい従来のしな布にはない世界観を完成させた。
シナノキの樹皮を糸にして織る「羽越しな布」は、新潟県村上市と山形県鶴岡市の県境をまたぐ、山間地域に残る伝統織物。日本三大古代布(沖縄・芭蕉布、静岡・葛布)のひとつといわれる。「ないものは作る、自然から得る」といった山とともに生きる知恵、逞しい生命力を持った村上市山熊田の住民の姿に触発された大滝順子氏は、この集落のマタギに嫁ぎ、その技術を学び始める
羽越しな布の制作は、現代では非効率ともいえる工程を現在も変えずに維持している。素材となる糸は、シナノキの樹皮の繊維を木灰で数日煮た後糠漬けし、川で洗い天日で干し、糸の太さに裂き、その端をひたすらよりあげて作る。この古来の製法にこだわるからこそ、光沢を帯び耐久性も高い上質な糸となる。材料から手に入れなければならないハードルの高さを乗り越え、危機的状況にいまだある「羽越しな布」の継続と発展に熱心に取り組む。
しな布八寸名古屋帯 市松もじり景色
樹皮を織る「羽越しな布」は、自然の力強さと素朴さが印象的だが、古来の製法で得られる上質な糸は僅かな艶と繊細さを放つ。その美しさと装飾表現の伸びしろに着目し、素材の魅力を存分に活かせる術を追求。張りと透けを強調し遠目でも映える意匠で、夏の風の涼しさを際立たせる帯地を制作。
応募タイトル
木の自然あるがままの良さと木の特性を社会に伝える事で、木の節やあざなどが傷物、B級品と見なされている業界の常識と現状を変える取組
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
応募タイトル
木の自然あるがままの良さと木の特性を社会に伝える事で、木の節やあざなどが傷物、B級品と見なされている業界の常識と現状を変える取組
1986年石川県出身。大学卒業後、東京の家具メーカーに就職。2013年帰省し、匠頭漆工入社。2018年、木地師の認知度を高める為、自社オリジナルブランドを立ち上げる。現在は、「ファンとつくるうつわプロジェクト」「折れた木製バットからイイモノを」を企画・進行中。
木は成長し枝が伸びるため節があって当たり前であるが、椀など木製品で節があるものは長年「B級品」とされてきた。その常識を覆すために、節に金蒔絵や色蒔絵を入れることでより価値のある商品を作り上げ、「金のmebuki椀」、「彩のmebuki椀」「素のmebuki椀」として販売。陶磁器における金継ぎをヒントに、新しい価値観を木地に与えた。また、「オンライン上での工場見学などユニークな取り組みが光り、販路拡大にも努力している」(審査員・河井隆徳)と共感を得た。
山中漆器の木地師である匠頭漆工。先代から引き継がれた高いろくろ技術を継承し木地師として活動しながら、木地の世界に新しい価値観を投げかけている。それは、B級品とされてきた木地の節やアザが、あって当たり前であり味のひとつだと受け入れること。木は自然物のため、節やアザのある材料が出ない日はないという状況に「もったいない」と、陶磁器の修復をヒントに木地の割れに金継ぎを取り入れた。こうすることで、もともと廃棄、B級品とされた材を使い、自社の全製品に関しては節、アザのあるなし問わず全てA級品としている。また後継者を育てるには、木地師という職業を多くの人に知ってもらいたいと考え、SNSやクラウドファンディングを駆使。作り手、使い手の双方向のコミュニケーションをていねいにとり、新規のファンを多く獲得している。
mebukiシリーズ
B級品と判断されてきた木の節を、あえて「自然あるがままの良さ」という価値観を新たにつけ、活かしたうつわ。節部分に金蒔絵・色蒔絵を施す、または漆のみで埋めて仕上げる3パターンを展開。一つひとつ異なった表情をもつ杢目と節は、使い手にとって世界で自分だけのうつわとなる。
応募タイトル
九谷焼の本流~伝統と伝承の融合を未来へ
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
1996年東京藝術大学美術学部卒業。1999年日本工芸会正会員認定。2005年文化庁新進芸術家在外研修員として渡伊。2014年伝統九谷焼工芸展大賞。2015年九谷焼伝統工芸士認定。2018年・2019年日本伝統工芸展出品作『緑彩真麗線文鉢』宮内庁買上。2021年日本伝統工芸士会作品展『緑彩花器雪月花』衆議院議長賞受賞。
「職人、作家としての技術の高さだけでなく、経営者、産地のリーダーとして積極的に行動して産地をけん引していることは素晴らしい」(審査員・河井隆徳氏)。レベルの高い作品が多い九谷焼のなかでも、独自開発した絵の具の存在感、表現力が注目された。これは剥離しにくく透明度が高いことが特徴で、鮮やかさと温かみ、立体感ある独特の表情に焼き上がる。この絵の具を用いた緻密な絵付けと産地全体への貢献が高く評価された。
1970年創業、九谷焼の上絵付け専業の窯元である真生窯。二代目宮本雅夫氏は、初代の色絵細描技法を継承しつつ、色、形、マチエールを追求した「緑彩」をはじめとする独自の技法で青手九谷の新しい表現に取り組む。九谷焼は九谷五彩(紫、黄、緑、紺、赤)を駆使した華麗な上絵付が特徴ながら、近年は絵柄が単純化。伝統的な和絵具を使いこなす職人も減っている。宮本氏は九谷五彩、和絵具、細密画にこだわり、九谷焼の本質をつきつめながらも、洗練された現代的な作品に昇華。
窯主、九谷焼伝統工芸士会の企画委員長として、首都圏で絵付けのワークショップ、講座の開催、書籍、PR映像制作、展示会などの企画構成と「本物の九谷焼」を広く知らせる活動に積極的に関わる。
鉢 瑞鳥文煌五彩
寿果である桃の木に瑞鳥を描き、余白を青海波で描き埋めた鉢。超絶に緻密な線描と窯独自の透明度の高い色釉を駆使し、塗っては焼く工程を十数回繰り返すことで立体的な質感を生み、宝石のような輝きを放つ。
応募タイトル
古くから伝わる器「応量器」と、現代のニーズに合わせた「応量器」の技術開発および販路開拓
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
応募タイトル
古くから伝わる器「応量器」と、現代のニーズに合わせた「応量器」の技術開発および販路開拓
1793年創業。福井県鯖江市にて塗師屋業を営み、代々受け継ぐ道具と技術を守る。伝統工芸士であり八代目・内田徹は産学官で原料の開発などさらなる漆の普及に努める。新卒採用を積極的に行うことで人材確保と技術の伝承にも力を注ぐ。立上げから携わるファクトリーイベント「RENEW」では工芸×観光の可能性を見出している。
第3回に続いてのファイナリストとなった漆琳堂。耐熱120度と熱に強い「硬質漆」を福井大学、福井県工業技術センターとの産学官連携により開発し、食洗機で洗える漆椀の開発に積極的に取り組み続ける姿勢が前回、今回ともに評価された。
コロナ禍において「応量器」のニーズに目を付け、古くから伝わる形状と、現代の生活にあう形状の2種をリリース。どちらもきれいな入子になるデザインで、狭いキッチンでも場所を取らず収納できるメリットがある。「応量器の魅力をうまくプレゼンテーションしている」(審査員・千宗屋氏)と好評を得た。
1793(寛政5)年創業、長い歴史を持つ塗師屋業。八代目の内田徹氏は、若手職人、新卒採用を定期的に行い、伝統的な漆塗りの技術を保有、継承するため尽力する。また、熱に強い「硬質漆」を産学官連携により開発。独自の材料、デザインで生活道具としての漆の普及に務める。その努力は自社だけでなく、同業全体のPRのために下地師や研物師など、縁の下の力持ちともいえる職人たちの仕事ぶりを伝えるHPの制作や、地元のファクトリーイベント「RENEW」では立ち上げから携わり産地リーダーとして活動などにも及び、来場者が毎年3万人を超えるイベントの成長を支えている。今後、北陸新幹線の延伸、関西万博の誘致などもあり、ますます工芸と観光をつなぎ産地の発展のための活動を広げている。
現代版応量器
元来応量器とは雲水が平素、修行で使う黒塗りの器。コロナ禍で生活に不安な時こそ、この器を広めたいという思いで商品として開発。食洗機に対応し、現代の生活に沿うようにアップデートさせた「応量器」は入れ子に収まり、漆の艶を9分消に調合し、落ち着きのある雰囲気に仕上げた。すべて刷毛により手作業にて塗り上げている。
応募タイトル
廃れかけている唐組台による組紐制作技術の継承
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
三重県
応募タイトル
廃れかけている唐組台による組紐制作技術の継承
1971年、家業の組紐業に従事。1993年東海伝統工芸展初入選(以降26回内、受賞4回)。1996年日本伝統工芸展、日本伝統工芸染織展、各初入選(以降各20回内、染織展受賞1回)。同年伝統工芸士に認定される。1998年伝統工芸士会作品展特選、日本工芸会正会員認定。2016年三重県文化功労章。2018年三銀ふるさと文化賞受賞。
長さ155cm、幅1.9cmの帯締めを作るには、毎日組み続けても4ヶ月以上かかるという唐組台による組紐。幅を揃え表面を平らに編み上げるにはたいへんな熟練の技を要する。「たとえ何に使うかわからない外国人が見ても、この作者ならではの帯締めの意匠の新鮮さ、技術の高さはわかるはず」(審査員・外舘和子氏)と好評を得た。
奈良時代以前にまで遡る伊賀くみひも。組紐制作に使用する台には、角台、丸台、重打ち台、綾竹台、高台、唐組台があり、このなかで、唐組台で製作された組紐は難しさから現在ではほとんど販売されていない。帯締めの制作日数は手間のかかるものでも2週間ほどが通常であるが、唐組台となると2〜4ヶ月はかかり、手間も数倍以上である。平安時代からの受け継がれた唐組台での制作の技術。くみひも職人でただ一人、有職糸組師として重要無形文化財保持者になった十三世深見重助氏亡き後、この技術を持つのはわずか数名である。
松山好成氏は稀有な技術を継承しているひとりで、日本伝統工芸展にて作品を発表し、唐組台によるくみひもの技術の難しさと手間、素晴らしさを多くの人に伝えるべく努める。
くみひも(唐組) 万華鏡
8cm×4cmの厚紙を布で包み5本の糸を巻き一束とし、112個の糸巻を使って制作。作品は中心に大菱両側に小菱4個、両耳に無地を、染色は草木染して組みあげた。手だけで糸を締め、幅を揃え、表面を平らに組み上げることは熟練を要する技術で、製作日数は1日6~8時間かけ約140日を要した。
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日本の伝統美、様式美、用の美の評価の上に立つ蓋物(食籠・合子、水指など)の作品としての独自性の確立と次代への継承
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
応募タイトル
日本の伝統美、様式美、用の美の評価の上に立つ蓋物(食籠・合子、水指など)の作品としての独自性の確立と次代への継承
1956年アメリカ出身。ニュージーランドで3年半の陶芸活動の後、1981年初来日。1994年日本工芸会正会員認定。2007年兵庫陶芸美術館特別展「兵庫の陶芸」開催。1988年から薮内流で茶の湯を学び、茶道の世界も自分の勉強の場とする。2015年日本国籍を取得。
アメリカ出身のピーター・ハーモン氏だからこそ発見できる、日本の伝統、様式美、用の美を、自身の作風に見事に落とし込んでいる。茶の湯に長く親しみ、日本の自然、文化を独自の文様として解釈、茶道具として昇華している。「陶器中心であった茶の湯の世界に独創的な磁器の茶碗や水指などをもたらした。端正で清潔感のある作品である」(審査員・外舘和子氏)
アメリカ、ニュージーランドで陶芸家として活動。1981年に来日、1985年に滴翠美術館附属陶芸研究所専攻科卒業。1994年には当時西洋人唯一の日本工芸会正会員に認定される。自身も藪内流の茶の湯を学び、食籠、水指、香合など青白磁の蓋物、茶道具を主とする。山や草木、木に積もった雪などの自然や、風の動きなど里山の風景の抽象化、袴の折り目、着物の襟から着想を得たもの、竹を編んだ文様を大胆にアレンジするなど、日本の伝統美、様式美を造形に合わせてオリジナル文様に展開。アメリカ的な感覚と、茶の世界で学んだ伝統美、様式美、用の美を独自のものとして昇華させ創作に励む。
白磁四方編崩し文合子
白磁で全体的に柔らかい雰囲気を持たせながら、四方の鋭い角と大胆な文様を合わせた。文様は、竹を編んだものを崩しながら掘っていった。形が「四方」といっても角を正面にして菱形扱いにすることで、より面白みを増す試みをした。
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岡山県指定郷土伝統的工芸品である烏城紬の伝統と技術の伝承を目指す
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
岡山県
応募タイトル
岡山県指定郷土伝統的工芸品である烏城紬の伝統と技術の伝承を目指す
3年1クールの講座で烏城紬の基礎を学んだメンバーを中心に、1998年「烏城紬守る会」(現:烏城紬保存会)を立ち上げる。2009年保存会の拠点となる「烏城紬伝承館」を構える。四代目織元・須本雅子氏を中心に、現在は50名以上の会員が技術を磨き伝統を後世に伝えるために活動。
須本氏ひとりで始まった烏城紬の技術保存、継承への活動が今では大きく広がり、講座卒業生の中には県展で入選する者も。その継続した努力が評価され、第3回に続いてファイナリストとなった。須本氏は、全国伝統的工芸品公募展に出展し、「中小企業長官賞」「内閣総理大臣賞」を受賞。平成24年度からはアクロス福岡で行われる女性伝統工芸士展にも招待され、作家として烏城紬のPRの場を得ている。数年前からイベントの際にはスタッフとして保存会会員も参加し、商品についての評価や好まれる柄などの研究、マーケティングを重ねる。
岡山県指定郷土伝統工芸品である烏城紬。産地として大きくなく、工程は分業せず、糸紡ぎから精練、染め、整経、機ごしらえ、織りまでを一貫してひとりで行うため、技術の継承は容易ではない。その技法をひとりで守ってきた四代目織元の須本雅子氏は、技術継承のため3年1クールの講座を開始。現在は、9期生が最終年度を迎えており、10期の希望者は定員を超えそうな状況である。
講座で基礎を学んだ卒業生は技術を磨きたいという思いから、「烏城紬保存会」を設立。共同で使える工房として烏城紬伝承館も立ち上げ、50名を超える会員が技術の向上につとめる。
烏城紬は、緯糸の紡ぎ方によって布の風合いが大きく左右されるため、熟練を必要とする。緯糸の風合いを生かすには、経糸や緯糸の張り方・織り方にも技術を要し、ひとつひとつの工程の熟練が大切である。
烏城紬「色、色、色、」
さまざまな色の糸を用いたため、「色、色、色、」と名付けた。経糸の整経をする際は、工夫して縞の太さに変化を付け、今までに使った残りの経糸も加えた。織る際には、薄い色と使い残した緯糸を使って多色に。あまり目立たないようにしながらも、濃い色を入れて文様に変化をつけた。
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七宝技術の継承と発展
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
1968年広島市出身。1991年香川県漆芸研究所修了。2004年文化庁新進芸術家国内研修員。2008年広島県民文化奨励賞。2013年淡水翁賞最優秀賞。2014年式年遷宮記念神宮美術館特別展「静-歌会始御題によせて-」招待出品。2015年日本伝統工芸展鑑査委員就任(2018年・2019年・2021年)。2021年地域文化功労者表彰。
金属ボディ(素地)から自身で作っているため、従来の七宝ではできなかった角のある蓋もの作品や、凹凸のある作品など、七宝の斬新なかたちを生み出した。その高度な技術とセンスに外舘和子氏をはじめ審査員の評価が高かった。明治にはなかった技法を開発し、現代の機械や素材を取り入れることで、長年の問題点であった造形の限界や質の向上に取り組み、七宝の新しい方向性を示した。
七宝工芸作家の父のもと、幼少のころから七宝を身近に育った粟根仁志氏。その環境のなかで、明治期より七宝が抱える問題点、課題を考えるようになった。そのひとつが「造形」である。七宝は、複雑な制作工程があるためほとんどは分業で、素地(金属造形)や覆輪といわれる金具部分は業者に委託しているのが現状である。それまではスピニングによる丸型か、打ち出しによる丸みを帯びた立方体のものしか選択肢がなかった。粟根氏は平成16年から多くの時間を素地の試作にあて、溶接の技術を用いた角のある造形に成功。その後、表現の幅が増えたことにより七宝造形のさまざまな可能性を広げ、実現してきた。
また、七宝工芸に生かそうと、分野の違う漆芸を香川県漆芸研究所にて3年間学んだことも、複雑な工芸である七宝への理解をより深めた。
七宝蓋物「律」
紺色を全面に配し、表面に現れる銀線との調和を意識した。造形の発展は現代七宝の進展に大きな役割を果たすと考え、溶接・鑞付けによる角のある七宝を作り続けてきた。本作品では、その成果を活かせるモダンな造形を試みた。さらに、凹凸・溝の光による新しい七宝の可能性を模索した作品である。
応募タイトル
蒟醤の持つ繊細な美しさをグラデーションによるオリジナリティの追求により表現したい
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
香川県
応募タイトル
蒟醤の持つ繊細な美しさをグラデーションによるオリジナリティの追求により表現したい
1979年武蔵野美術大学大学院造形研究科修了。1983年日本伝統工芸展初入選。1990年日本伝統漆芸展朝日新聞社賞受賞。(以来5回受賞)2008年日本伝統工芸展東京都知事賞受賞。2009年日本伝統漆芸展監査委員就任(以後4回)。2009年香川県指定無形文化財「蒟醤」技術保持者認定。2014年日本伝統工芸展監査委員就任(以後1回)。2021年香川県文化功労者表彰。
讃岐漆芸の伝統を受け継ぎながら、現代的な漆作品を模索している佐々木正博氏。従来、単色の蒟醤の技法にはなかった微妙なグラデーションと繊細な文様を駆使した華やかな表現が評価された。蒟醤をさらに広めるため、グループ展、個展の積極的な開催、小学生を対象にしたワークショップを20年以上継続している。
「伝統工芸であっても、作家としてのオリジナリティがほしい」と、蒟醤の技法をベースに、独自の手法でグラデーションの表現法を生み出した。本朱漆から黒漆まで少しずつ黒を入れた色漆を5段階作っておき、本朱、少し黒い本朱、黒漆とぼかしながら返しを入れて塗り、3段階の湿度の違うムロで少しずつ乾かす。蒟醤は、後から彫りを入れるため垂れないように厚く上塗りをするのが難しい、と佐々木氏は語る。1ヶ月間乾かしたのち、文様を彫る。黄口の朱漆、赤口の朱漆にも少しずつ黒漆を入れ、色漆を5色ずつ作っておき、彫りのあと、この色漆を市松模様に沿って埋めていく。埋める色漆が同じ色であっても、下の上塗漆の明暗によって変化が見える。その色のずれが同じ色であっても微妙に異なり、グラデーションとなる。従来の蒟醤技法の持つ色の表現をより多様化し、現代的な作品を実現させた。
乾漆蒟醤草華文八角蓋物
漆の最も美しい色と考える黒と赤をグラデーションより構成し、伝統的かつ新しい表現を目指して制作した蓋物。本朱の上途の上に蒟醤技法により彫を行い、埋め研ぎ出し、赤口と黄口の朱漆をグラデーションにして表した。
応募タイトル
香川県の可能性と魅力を最大限に集約した、香川漆器の開発と発表
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
香川県出身。重要無形文化財保持者・磯井正美氏に師事。日本伝統工芸展をはじめ数々の賞を受賞。フランスを中心に様々な国で作品を発表。香川漆器の可能性と発展のため、「さぬきうるしSinra」を設立。庵治石を使った技法「石粉塗」の開発に成功。日常の器から現代アートまで、幅広く製作研究を行う。
本来なら産業廃棄物となる「庵治石の削り石粉」に漆を混ぜ込み「石粉塗」を開発。「花崗岩のダイヤモンド」と呼ばれるほど硬く、丈夫である庵治石。「Ishiko」シリーズは強度の高い石粉塗で器を塗ることで、金属カトラリーを使っても傷がつきにくく指紋が気にならず、シンプルなデザインにより、和洋の垣根を超える漆器となった。食育の一環としてこうした漆器を小学校に無償提供し、次世代の使い手を育てる活動も始める。
アート活動としては漆器に施した「
重要無形文化財保持者・磯井正美氏に師事した松本光太氏。香川県の伝統技法の基本とともに「蒟醤」の技術を習得するが、地場産業である香川漆器業界の落ち込みにより、生活すらままならない職人が多い状況を憂い、後継者不足、漆器への理解、興味不足を打破するため以下の3つの活動を始める。一つ目は、香川県を代表する産業である、「庵治石」加工会社の力を得て本来であれば産業廃棄物であった「庵治石の削り石粉」に漆を混ぜ込むことで「石粉塗」を開発、発表。「Zoukoku」シリーズ、「Ishiko」シリーズという2つに新技法を生み出した。二つ目は、漆を志し、熱い情熱を持つ若手をサポートしともに成長する団体 「さぬきうるしSinra」を設立。仕事を見つけることにより、技術の伝承となり作り手を増やすことを目指す。三つ目は、香川漆器の技法、技術を基本としたアート作品の制作。これらすべてが香川漆器の未来だけでなく、日本の漆芸の未来に関わることではないかと考え、積極的に活動を続ける。
Zoukoku茶箱「満月」
庵治石の粉を漆に練りこみ、凹凸で表現する石粉塗の茶箱。総香川産を目指し、木地から素材、製作まで香川県にこだわった作品。象谷塗を発展させ、詫び寂びのある夜の中に登りゆく満月は、見る人の気持ちによって、凛々しくもあり、おぼろげにも映るように想いを込めた。
応募タイトル
伝統工芸の小倉織を現代のテキスタイル「小倉 縞縞」として創出
第4回「三井ゴールデン匠賞」ファイナリスト
1952年北九州市生まれ。早稲田大学文学部中退、染織の道に進む。1984年途絶えていた郷里の小倉織を復元、再生。手織りによる小倉織の帯を日本伝統工芸展などに出品し、受賞多数。2007年広幅で機械織の「小倉 縞縞」ブランド立ち上げからデザイン監修を務める。ミラノサローネなど海外での発表も続けている。
最盛期には生産工場が100社あったとされるが、昭和初期に途絶えてしまった小倉織。手織りや、外部の工場に委託していたが、自社工場の必要性を感じ、2008年に小倉織物製造株式会社を設立。小規模工場の利点を活かし、小ロットからの注文にもすばやく対応できることを強みに受注を広げている。築城則子氏がアートディレクター、デザイナーを務めるブランド「小倉 縞縞」は、ファッション、インテリア、サッカークラブのユニフォームなど縞の可能性を感じさせるさまざまなプロダクトへの展開、若手育成、産地活性への貢献が評価された。
江戸時代の初期から小倉藩で織られていた歴史ある綿織物、小倉織。昭和初期には途絶えていたが、1984年に築城則子氏が手織り、草木染めで小倉織を復元、再生。経糸の密度の高さによる丈夫さと色彩の豊かさの個性を生かし、日本伝統工芸展などで帯を中心に作品発表を続けてきた。
しかし、手織りの帯は一点もの。汎用品として、2007年に機械織による広幅小倉織を開発。「小倉 縞縞」としてブランド化する中でアートディレクター、デザイナーとして活動。丈夫でなめらかという特徴を持つため、バッグや新世代のデニムなどのファッション、カーテンやクロスなどのインテリアと、多分野へ小倉織の可能性を広げている。
縞縞EVOL「自在無彩」
現代の小倉織として「EVOLUTION(進化)」から名付けた新シリーズ。自社工場に導入した最新型整経機により、140cmの生地幅全体をキャンバスに見立てた自由なデザインを可能にした。機械に「手」の技を同化させ、小倉織の特色である経糸の高密度が、より表現を深めている。